東京都江東区富岡に鎮座する神社。
それが富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)です。
土地の名前から「深川八幡」「深川の八幡様」と呼ばれることもあります。
縁結びが有名ですが、相撲界とも深い関係のある神社でもあります。
KOBO
今回はそんな富岡八幡宮の「歴史」と「見どころ」について紹介したいと思います。
富岡八幡宮の歴史
1682年:天和の大火によって焼失
1688年~1704年:紀伊国屋文左衛門により三基の神輿が奉納
1868年:准勅祭社に指定される
1869年:富岡八幡神社に社号を改称
1873年:府社となる
1923年:関東大震災により、三基の神輿が焼失
1945年:東京大空襲により社殿が焼失
1956年:社殿が再建
1991年:神輿が再興
2017年:神社本庁から離脱し単立神社となる
1627年に長盛法師(ちょうせいほうし)という僧が、夢でお告げをもらい、当時永代島と呼ばれていた小島に八幡神を祀ったのが始まりです。
長盛法師は学問の神様として知られる、菅原道真(すがわらのみちざね)の末裔と言われています。
1682年に天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれる江戸の大火事が発生し、富岡八幡宮は焼失します。
1688年〜1704年に、紀州みかんや塩鮭で富を築いた豪商・紀伊国屋文左衛門(きにくにやぶんざえもん)より三基の神輿が奉納されます。
紀伊国屋文左衛門は謎の多い人物なのですが、晩年には富岡八幡宮に滞在していたという話があります。
明治元年の1868年に、富岡八幡宮は准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)に選ばれました。
准勅祭社とは明治政府が定めた、東京近郊の主だった神社12社のことです。
1869年に富岡八幡宮は「富岡八幡神社」に社号を改称。
1873年に富岡八幡宮は府社となります。
1923年に関東大震災により、かつて紀伊国屋文左衛門が奉納した三基の神輿が焼失してしまいます。
1945年の東京大空襲により、社殿が焼失してしまいます。社殿が再建されたのは1956年です。
1991年に関東大震災により焼失した、三基神輿が再興します。新しい神輿は日本一の大きさで黄金の神輿です。
2017年に富岡八幡宮は神社本庁から離脱し、単立神社となります。
富岡八幡宮のご利益
・勝利祈願
・病気平癒
・学業成就
・金運
・安産
富岡八幡宮では、上記にあげたご利益を得ることができると言われています。
八幡神を主祭神とし、他8柱の神様が祀られています。
主祭神である八幡神は弓の名手であり、応神天皇(おうじん)の化身でもあります。
そのため勝負事に関するご利益を求めて、古くから多くの武士から信仰を集めました。
また富岡八幡宮には多くの境内社があり、勝負運以外にも金運や学問など、さまざまなご利益を得ることができます。
富岡八幡宮の見どころ
富岡八幡宮には、沢山の見どころがあります。
いくつかピックアップして紹介します。
伊能忠敬の像
永代通りに面した大きな鳥居をくぐると、左手に伊能忠敬(いのうただただ)の像があります。
伊能忠敬は江戸時代に日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人。
伊能忠敬は佐原の商家の主人として成功を収め、49歳にして隠居。
その後、江戸に出てから天文や暦学を本格的に学び、地図作りを始めます。
江戸の伊能忠敬の家は今の東京都江東区門前仲町1丁目にあたる、深川黒江町にありました。
伊能忠敬は測量旅行に行く前に、必ずと言って良いほど富岡八幡宮に参拝していたようです。
今では伊能忠敬の作った地図は非常に正確であったことは有名です。
実は伊能忠敬が作った地図は幕府に提出されましたが、その時は公開されることはありませんでした。
地図が公開されたのは50年後で、伊能忠敬の地図が広く利用されはじめたのは明治時代になってからです。
手水舎
正面参道には手水舎があります。
こちらの手水舎は2017年に改修工事がされ、黄金の鳳凰の口からセンサーで自動で給水される仕組みです。
1827年に奉納された旧水盤は、江東区の指定有形文化財のため富岡八幡宮の資料館の方に移されました。
旧水盤には290名の奉納者の名前が刻まれています。
奉納者には浅草寺門前や本所など、富岡八幡宮の氏子(うじこ)でない町の人達の名前が刻まれています。
氏子とは自分の住む土地を守る氏神(うじがみ)を信仰する人のことです。
旧水盤を見れば多くの人から、富岡八幡宮が信仰されていたことが良く分かります。
昭和天皇御製碑
正面参道の手水舎の向かい側にあるのが、この昭和天皇御製碑(しょうわてんのうぎょせいひ)です。
御製碑とは天皇陛下の詠まれた和歌が刻まれた石です。
「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」御製碑にはこのように刻まれています。
1945年の東京大空襲の後に、昭和天皇は富岡八幡宮の視察に訪れ、視察の後に昭和天皇は終戦の決意をしたと伝えられています。
深川八幡祭
富岡八幡宮の例祭は「深川祭」「深川八幡祭」「水掛け祭」などと呼ばれ毎年8月15日頃に開催されます。
神田明神の神田祭
山王日枝神社の山王祭
富岡八幡宮の深川八幡祭
このように江戸三大祭りに数えられます。
江戸っ子達は「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と唄ったそうです。
祭りは毎年行われますが、3年に1度やるお祭りは「本祭り」と呼び、大小あわせて120数基の町神輿が町内を練り歩きます。
その120基の内の53基は大きな神輿で、この大きな神輿が揃う連合渡御(れんごうとぎょ)は圧巻。
ちなみに、深川八幡祭は別名「水掛け祭」と呼ばれますが、これは観衆が清めの水を神輿の担ぎ手にかけて、一緒に盛り上がることが理由だそうです。
銀杏の木
富岡八幡宮の本殿の裏手に、ご神木である銀杏の木(いちょうのき)があります。
この銀杏の木には「戦火の中、水を放って火を消した」という不思議なエピソードがあります。
この2本の木は男女の一対となっています。そのため縁結びのパワースポットとしても有名です。
富岡八幡宮では、このご神木にちなんだ、縁結びに関連したお守りが売られていて女性達に人気です。
横綱力士碑
社殿裏手に、この横綱力士碑(よこづなりきしひ)があります。
高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、非常に大きな石碑で両サイドの石に屈強な力士の絵が彫られています。
実は富岡八幡宮は江戸勧進相撲(えどかんじょうずもう)の発祥の地です。
勧進相撲とは、寺社の造営・修復に要する費用を捻出するために、開催した相撲のことです。
江戸時代以前は日本各地で行われていましたが、勝敗をめぐる喧嘩等のトラブルが多く幕府から禁止令が出ていました。
そんな中、富岡八幡宮での春と秋の二場所の勧進相撲が、許されることになりました。
以降100年間にわたって本場所が富岡八幡宮の境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されます。
つまり「現在の大相撲の基礎が富岡八幡宮で築かれた」ということです。
代々横綱の土俵入りと石碑への刻名式は、富岡八幡宮でおこなわれ富岡八幡宮と相撲界は、現代でも深い関係にあるのです。
まとめ
KOBO
以上、富岡八幡宮の「歴史」と「見どころ」について紹介しました。
富岡八幡宮には色々な魅力がありますが、やはりインパクトが大きいのは横綱力士碑だと思います。
境内には相撲関係の奉納物が沢山あり、お相撲さんの力強さが伝わってきます。
主祭神も勝負運にまつわる神様なので、何か前向きになれるようなパワーの欲しい人は是非、足を運んでみると良いでしょう。