浅草駅から徒歩5分ほどの場所にあり、浅草の象徴的なお寺、それが浅草寺(せんそうじ)です。
近年の浅草寺は海外でも非常に人気があり、浅草駅を降りると「ここは海外ですか?」と勘違いするほど、たくさんの外国人観光客の方を見かけます。
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今回はそんな浅草寺の「歴史」と「見どころ」について、紹介したいと思います。
目次
浅草寺の歴史
645年:本尊を秘仏と定める
1590年:徳川家康が浅草寺を祈願所と定める
1685年:仲見世の前進の商店が設けられた
1923年:関東大震災の被害に合う
1945年:東京大空襲により本堂と五重の塔が焼失
1951年:多くの信徒や各界の有力者の力により焼失した建物が再建
浅草寺ができたのはいつ?
浅草寺の創建は628年。
隅田川で見つかった聖観世音菩薩の像を、地元の有力者である土師中知(はじのなかとも)の自宅に祀ったことが始まりと言われています。
645年に勝海上人(しょうかいしょうにん)という僧が浅草寺を訪れ、観音堂を整備しました。
その時に勝海上人の夢枕に観音様が現れ「みだりに拝するなかれ」とお告げを残します。
そのお告げがあってから、浅草寺ではご本尊を秘仏として奉安しています。
1590年、江戸城に入城した徳川家康は、浅草寺を祈祷所に定めます。
それ以降、浅草寺は徳川将軍家によって厚い庇護を受けることになります。
1631年と1642年に浅草寺の建物は焼失してしまいますが、三代将軍・徳川家光の援助により五重塔や本堂が再建されます。
1685年には、今の「仲見世」の前進である商店ができます。
1923年の関東大震災では、現在の台東区東部にあたる浅草区は、大半が焼失する被害に合いました。
この時、地元のとび職の親方が境内の避難民を指揮して、バケツリレーによる防火作業を行った結果、一部建築物が延焼するだけの被害に抑えることが出来ました。
1945年の東京大空襲では、旧国宝の本堂や五重の塔が焼失しています。
しかし、この時は多くの信徒や有力者の協力により、浅草寺を再建することができました。
浅草寺のご利益
浅草寺で最も大切に祀られているご本尊は聖観音菩薩です。
ご利益は所願成就。
特定の願い事ではなく、あらゆる願い事を叶えてくれます。
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浅草寺の境内には他にも、お参りスポットがたくさんありますよ。
・病気平癒なら薬師堂。
・技芸上達なら弁天山。
・商売繁盛なら銭塚地蔵堂。
・縁結びなら久米平内堂。
・火除けなら鎮護堂。
・安産なら淡島堂。
このように、さまざまなご利益を得ることができます。
浅草寺の見どころ
浅草寺には見るべき場所が沢山あります。
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今回は特に足を運ぶべき、注目の場所をピックアップしました。
雷門
浅草寺のシンボルとして有名な雷門。
正式名称は風神雷神門です。
平将門(たいらのまさかど)の従兄弟にあたる平公雅(たいらのきみまさ)によって建てられたと言われています。
935年頃に関東の豪族・平将門が朝廷を相手に争った「平将門の乱」によって浅草寺は荒廃していました。
942年に平公雅は武蔵国司に任命されて、浅草寺の建物を再建すると同時に、この雷門を建てたと伝えられています。
この雷門は何度も焼失の被害に合っていて、近年では幕末の1865年に焼失をしています。
今では考えられないかもしれませんが、1865年から約95年間この雷門が再建されることは無く、雷門のない浅草寺の時代が長く続くことになります。
雷門が再建されたのは1960年。
松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の寄進により雷門は今の姿になりました。
仲見世
雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって商店が並ぶエリア。
それが仲見世(なかみせ)です。
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またの名を仲見世通りとも呼びます。
1685年、近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに、開業の許可を出したのが仲見世の始まりと言われています。
仲見世は日本最古の商店街のひとつでもあります。
近年では仲見世の家賃問題が浮上していました。
商店街の土地は寺が所有、建物は東京都が所有をしていました。
第二次世界大戦の仲見世の焼失時に、店主が自ら建物を建て直したことなどから、だいたい月2万3000円と家賃が低く抑えられていました。
ところが2017年に、この建物を浅草寺が買い取ることになり、段階的に5万円ずつ8年後に月25万円の家賃になることが決定しました。
家賃が上がれば当然、立ち退く商店も出てくるので、代わりに大資本のチェーン店などが入る可能性がでてきます。
「個人商店が入り乱れ特色のあった仲見世の姿は、将来的に見られなくなるかもしれない」と心配する人も多いです。
2026年頃には仲見世の風景も変わってしまう可能性があるので、今のうちに足を運んでみると良いでしょう。
五重塔
宝蔵門を通って左手に五重塔(ごじゅうのとう)があります。
五重の塔は雷門と同じく平公雅が942年頃に建てたと伝えられています。
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当初は五重塔ではなく、三重塔だったようです。
何度か焼失をした後、1648年に徳川家の力により五重塔として再建されました。
明治時代の1886年に、五重塔は修復工事を行いましたが、その時に足場を組み一般人でも最上層の屋根部分まで登れるようにしたようです。
五重塔は1945年に東京大空襲で再び焼失しますが、1970年に場所を移して再建。それが現在の五重塔です。
鎮護堂
鎮護堂(ちんごどう)の近くに行くと「たぬきの像」があって驚く人も多いと思います。
実は、明治の初め頃の東京は多くの「たぬき」が棲んでいて、浅草寺の伝法院(でんぼういん)あたりにも「たぬき」が棲み着いていました。
草履が釜に投げられたり、座敷に砂を撒かれたり「たぬき」によるイタズラが多発していたようです。
ところがある日、浅草寺の住職の夢枕に「たぬき」が登場して、お告げを残したようです。
「われわれのために祠を建てて保護してくれれば、伝法院を火災から守り、永く繁栄させましょう」
そのようなことがあり1883年に鎮護大使者として祀ったのが、この鎮護堂だそうです。
この「おたぬき様」のおかげもあってか、伝法院と鎮護堂に関しては、関東大震災や東京大空襲での焼失を免れています。
招き猫の発祥の地!?浅草神社との関係…
浅草寺本堂の東側に、三社様の名で知られる浅草神社があります。
実はこの場所は招き猫の発祥の地として有名です。
1852年に記された武功年表(ぶこうねんぴょう)には、このようなことが書かれています。
ある日、浅草花川戸に住む老婆が貧しさ故に愛猫を手放しました。
すると夢枕に愛猫が現れて「自分の姿を作り祀れば福徳自在となる」とお告げを残したようです。
そこで老婆は今戸焼(いまどやき)の焼き物にして愛猫を土人形にし「浅草神社」の鳥居辺りで売りに出したところ、大評判になったんだそう。
今戸焼とは今の東京台東区の今戸などで焼かれていた、素焼や楽焼の陶磁器のことです。
当時の招き猫は「横座りで頭を正面向きにして招くようなポーズ」をしていて、招き猫ではなく丸〆猫(まるしめのねこ)と呼ばれていました。
招き猫の発祥地に関しては日本全国にいくつか説がありますが、「浅草寺・浅草神社にゆかりがある」といった説が、最も古い記録であることは確かなようです。
まとめ
以上、浅草寺の「歴史」と「見どころ」について紹介しました。
プチ豆知識ということで、少し知っておくと、お参りや観光で行った時にさらに楽しめるのではないでしょうか。
近年の浅草寺周辺は本当に外国人観光客の方が多く、和スイーツなど甘いものに力を入れているお店も多いです。
参拝後にちょっとお茶をしていくのもいいでしょう。
KOBO
僕は混んでいるのが苦手なので、お土産でわらび餅やお団子を買って帰ることが多いですが美味しいですよ♪
少し長い記事になってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました!