井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)は、東京都杉並区善福寺にあります。
青梅街道と早稲田通りの交差点のスグそばにあり、大きな朱色の鳥居と大きな朱色の灯籠(とうろう)が目立つ神社です。
今回は七五三やお宮参りをされる皆様に向けて、井草八幡宮の「歴史」と「見どころ」を紹介したいと思います。
目次
井草八幡宮の歴史
平安時代末期:神社としての形態を確立
1189年:源頼朝が奥州討伐の戦勝を祈願
1477年:太田道灌が豊島氏を攻めるにあたり戦勝を祈願
1624年~1649年:井上正利が社殿造営
1664年:今川氏堯により本殿を造営
1926年:大規模な境内整備が行われる
1966年:神社本庁の別表神社に指定
以上が大まかな井草八幡宮の歴史です。
個別に解説します。
縄文時代
井草八幡宮の正確な創建年代は不明です。
ただ、井草八幡宮の境内東側付近から、約4000年前の縄文時代中期の住居跡が発見されています。
この頃から聖地として人が集まり、神が祀られていたようです。
平安時代末期
神社としての形態を整えたのは、1185年近辺の平安時代末期と見られています。
1189年
この頃、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐の途中に井草八幡宮に必勝の祈願をしに立ち寄りました。
そして、その後に実際に勝利を収めたことから、井草八幡宮に社殿を造営しました。
この時に源頼朝の伝承が残っています。
旱魃(かんばつ)が続き、源頼朝一行は飲水の確保に困っていました。
そこで飲み水を確保するために、源頼朝が弓の先っちょで地面を掘り水をだそうとしたのです。
最初に掘った時、あまりにも水の出が悪かったことから、この地は遅の井(おそのい)と呼ばれました。
それがやがて遅野井(おそのい)に変化し地名となりました。明治時代までは井草八幡宮は「遅野井八幡宮」と呼ばれていたそうです。
1477年
室町時代後期に関東地方で活躍した武将である太田道灌(おおたどうかん)が石神井城の豊島氏と戦う際に、井草八幡宮で戦勝を祈願しました。
太田道灌は江戸城を築城した人です。
1624年~1649年
江戸時代になると井草八幡宮は徳川将軍家から庇護を受けます。
江戸幕府三代将軍・徳川家光の命により、大名である井上正利(いのうえまさとし)が井草八幡宮の社殿を造営します。
この頃、井草八幡宮一帯は「遅野井」と呼ばれていましたが、次第に井草(いぐさ)と呼ぶようになり井草村が成立するようになります。
1664年
1645年に井草村は旗本である今川氏の領地になり、井草八幡宮の本殿も造営されます。
この本殿は杉並区最古の木造建築として、しっかりと保護された状態で現存しています。
1926年
大正時代に入り、井草八幡宮は大幅に整備されます。現在の姿になったのは、この頃の整備が大きく影響しているようです。
1966年
1966年に井草八幡宮は、神社本庁の別表神社(べっぴょうじんじゃ)に指定されました。
別表神社とは神社本庁が包括している一部の神社のことです。別表神社は歴史の長い神社が多いです。
井草八幡宮のご利益
井草八幡宮には八幡大神(やはたおおかみ)が祀られています。
八幡大神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)とも呼ばれていて、応神天皇(おうじんてんのう)の化身とも言われています。
八幡大神はどんな神様なのか?
八幡大神(応神天皇)は、その腕の筋肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていました。
そのため、八幡大神は弓術の達人とされ、全国の武家から人気を集めました。
この武家人気は、源頼朝でおなじみの源氏が関係しています。
源氏は京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮を氏神として信仰しました。源氏は征夷大将軍を代々務めるなど、社会的成功者を多数排出しています。
なので当時は源氏への憧れもあり「出世開運」「勝負運」と全国の武家に八幡信仰が広まっていったのです。
八幡大神は何で複数の呼び名があるのか?
八幡大神は、もともとは今の大分県あたりの土着の神様です。応神大神は日本書紀では誉田別尊とも呼ばれる、歴史上の実在の人物です。
古代の大分では宇佐氏(うさうじ)と呼ばれる領海民の方々が、絶大な力を持っていて、この八幡大神をあがめていました。
八幡様の総本社である宇佐八幡宮も大分県にあります。
その宇佐八幡宮の創建には、八幡大神が現れ「われは応神天皇なり。日本を守護する」こんな神託を残したという伝承が残っています。
この伝承が元となり「八幡大神=応神天皇(誉田別尊)」と見られるようになったようです。
745年になると宇佐氏は奈良県の東大寺の大仏建設で大きな貢献をして、皇室と強い結びつきを得ることになります。
八幡大神の呼び名については諸説ありますが、この宇佐氏と中央政治との繋がりがきっかけとなり、世の中に広まったようです。
井草八幡宮の見どころ
こちらが井草八幡宮の見どころです。
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順番に解説しますよ♪
大鳥居
井草八幡宮の東に面している大きな朱色の鳥居です。
こちらの入り口は、疾走する馬から的に向かい矢を打つ武術、流鏑馬(やぶさめ)を行う時に使われます。
大鳥居から入ると一直線に伸びた東参道があり、そこには「一の的」「二の的」と目印が置かれています。
井草八幡宮の流鏑馬は5年に1度で、前回は2022年10月23日に開催されました。
大灯籠
井草八幡宮の北側の青梅街道沿いに、大きな灯籠が二つ置かれた入り口があります。
実は「アニメ・化け物語」に登場する北白蛇神社のモデルは井草八幡宮で、この大灯籠もそっくりそのまま登場します。
そのため、化け物語ファンの方が聖地巡礼のために、井草八幡宮を訪れているようです。
楼門
大鳥居から入っても大灯籠から入っても、社殿に行くのに必ず通るのが、この楼門(ろうもん)です。
朱色が目立つ門ですが、社殿を守る神様である随神が祀られ、左右は神輿庫にもなっています。
松の木
井草八幡宮には「源頼朝が手植えした」と言われる雄松を輪切りにした物が境内の廻廊に保管されています。
元々は雌雄の松の木が植えられていたようですが、雌松は1868年に枯れてしまい、残った雄松も1972年に枯れてしまったようです。
今は神門前に二代目の松が植えられています。
富士塚
井草八幡宮の北側、大灯籠の近くには富士塚があります。
富士塚とは、富士信仰に基づき自分達で作った山や塚に富士山の神を祀ったものです。
この富士塚は都内に、50箇所以上あります。
その50箇所あるうちの1つが井草八幡宮の富士塚で、富士塚目当てで井草八幡宮を訪れる人も多いようです。
力石
かつての井草八幡宮周辺は井草村と呼ばれていました。
井草村は田園地帯で周辺に住む人のほとんどは農業に携わっていたようです。
そのため米俵など重いものを持つ機会が多く、井草村の若い男子は力自慢が多かったようです。
毎年のお祭りの日には、周辺の力自慢男子を井草八幡宮に集め「重い力石を奉納する」といった慣わしがあったようです。
今、井草八幡宮にある力石は、1849年と1918年に奉納されたものだそうです。
井草八幡宮の「歴史」と「見どころ」まとめ
以上、井草八幡宮の「歴史」と「見どころ」について紹介しました。
井草八幡宮は歴史を紐解くと源頼朝と非常に深い関係にあり、歴代の権力者達もこの神社を訪れています。
祀られている神様を見てもそうですし、歴史を見てもそうですが「勝負事」にまつわるパワーを求めるなら間違いなくこの神社がベストでしょう。
KOBO
お宮参りと七五三のお参りでも人気のある神社です。
井草八幡宮でお宮参り
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